思い出のマーニー考察 追体験を通した自己肯定の物語

思い出のマーニー

2014年7月21日公開の思い出のマーニー、公開初日からTwitterでは「百合」「百合じゃない」と熱い議論を繰り広げていた本作品ですが、そういった部分とはまた別の「自己肯定」というに着目して個人的に考察してまとめてみました。ネタバレも含んでいるのでご注意ください。

映画「思い出のマーニー」、ネタバレを含まない感想はこちら!

ではどうぞ!

思い出のマーニー考察

  1. 少女姿のマーニーは幽霊だったのか
  2. アンナの追体験 マーニーそして久子と和彦
  3. 自己否定から自己肯定へ
  4. 個人的あとがき

少女姿のマーニーは幽霊だったのか

まずはアンナが出会った少女姿のマーニーの存在について私なりの解釈をまとめていきます。

作品を鑑賞された方はご存知だと思いますが、アンナが湿地帯(湿っち屋敷)で出会ったマーニーの正体はアンナの実の祖母でした。

マーニーが少女姿でアンナの前に現れたことについて「マーニーの幽霊が現れていたんだ」「一種のタイムスリップだ」などと様々な解釈を目にしましたが、私はアンナが出会った少女姿のマーニーは幽霊でもなんでもなくアンナ自身が言った通り”妄想”だったと思っています。

アンナは喘息の治療(ほぼ心の治療)で訪れた土地で湿地帯や屋敷を見たことによって無意識のうちに祖母マーニーが語ってくれた話を思い出し、それを元に少女姿のマーニーを妄想という形で生み出したのでしょう。

思い出のマーニー 屋敷
画像引用元:思い出のマーニー公式サイト

つまりお花売りとしてパーティーに参加したことも二人の夜のピクニックもサイロでの出来事もすべて祖母マーニーが昔、実際に体験したこと、幼いアンナに語り聞かせていた祖母マーニーの思い出なのです。

そんな祖母マーニーとの関わりなどすっかり忘れていたアンナは湿地帯と屋敷を見たことで知らず知らずのうちに記憶の底が刺激され、祖母マーニーの話をもとに妄想世界を作り上げ、その中で追体験したということになります。

上記のように仮定するとマーニーとアンナが接触するシーンで突然、マーニーの姿が消えてしまうことがあった点もスッキリします。マーニーが消えてしまう部分、それは祖母マーニーがアンナに語ったことのない部分なのです。

あくまでアンナは祖母マーニーから聞かされていた話に沿って妄想世界を作り上げ追体験をしていると考えると、不自然に妄想が途切れるシーンは祖母から語られなかった部分だととらえることができます。だから少女マーニーを生み出すことができないシーンがあるのです。

ただ終盤サイロでマーニーが姿を消した後、アンナが病み上がりに屋敷へと向かい少女マーニーと対峙したシーン(姿を消したマーニーとそれを追いかけたアンナとの会話の部分、「許して」「あなたが好きよ」という一連の流れ)に関しては、アンナの自己肯定の問題(後述)とつながるので、唯一追体験とは言い切れないのですが。

アンナの追体験 マーニーそして久子と和彦

追体験:他人の体験を、作品などを通してたどることによって、自分の体験としてとらえること。

引用元:コトバンク

私が少女マーニーは幽霊ではなくあくまでアンナの”妄想”であり”追体験”であったと解釈した一番の理由は少女姿のマーニーの見え方が2種類あったことによります。

「前半の行動力があり、アンナをぐいぐい引っ張っていくようなマーニー」と「後半の弱さが見え隠れしサイロでうずくまってしまうようなマーニー」この2つです。

アンナが体験したことがすべて祖母マーニーが語った経験談だとすれば・・・
前半はマーニーと久子の思い出として、そして後半をマーニーと和彦との思い出として捉えることができないでしょうか?

思い出のマーニー 追体験

アンナは祖母マーニーから聞かされた話をもとに妄想世界を作り上げ、その中の久子と和彦の立場に自分を当てはめて追体験を繰り返していたのです。

前半部分の他人をぐいぐい引っ張っていくようなマーニー

・屋敷の入り口階段で腕を引っ張る、草の陰に隠れる際に肩を抱き、引き寄せる行動
・お花売りの少女としてパーティーに参加する → 和彦が第三者として登場している

前半部分、少なくともパーティーに参加した時の視点からアンナは、マーニーでもなく和彦でもない主人格の立場になり追体験したことがわかります。

そしてこの主人格というのが唯一幼少期のマーニーと関わりを持っている人物として登場した久子なのです。

後半部分 弱さや苦手なものが見え隠れするマーニー
こうなれば後半は言わずもがな。

・励まされながらサイロへ向かい、突然の雷雨に恐怖し身動きすら取れなくなる、”和彦”へ助けを求める
・サイロでアンナを”和彦”と呼び続ける

マーニーが頼れる人、弱い部分を見せる相手は後の旦那となる和彦だったのでしょう。

 

後半、和彦の名前が目立ち始めたのはアンナが妄想世界を認識し(メガネっ娘に”マーニーは私の妄想”と伝えた)、自分と妄想の世界の区別が付き始めていたからということでしょうかね。
 

もう一つ、あの少女マーニーが妄想であったと思う理由があります。それはアンナが見た少女マーニーの姿、かたちです。

少女マーニーの髪は長くてウェーブしていて金色、そして大抵白いワンピースを着ています。
この姿はアンナの回想内(両親または祖母マーニーのお葬式時)で幼少期のアンナが抱きかかえていた人形と酷似しています。

これが偶然の一致だとは思えません。つまり、アンナは追体験するために妄想内で少女姿のマーニーを再現する必要があったが、祖母マーニーの姿しか知らないため、幼少期に遊んでいた人形をベースに少女マーニーを作りあげたと…。こう考えることはできませんか?

自己否定から自己肯定へ

主人公アンナは幼いころに両親や祖母であるマーニーを失っており、もらいっことして育てられていました。

もらいっ子なので育ての親である夫婦は国から助成金をもらっていたのです。

両親がいない、育ての親は国からお金をもらって私を育てている(お金のために私を預かっているのでは?というある種の愛情に対する不安)、そして瞳が青い(マーニーが祖母であるため)

これらの点が重なってアンナは自分と周囲の人間に”違い”を感じ、”普通でいたいのに周りの人と違う”という思いに苦しみ、そんな”普通じゃない自分”のことが嫌い=自己否定気味の性格になっていたのです。

いろんなものに対して苛立ったり、無関心だったりする割に最終的に「私は、私が嫌い」と自己否定に収束するあたり自己否定的な性格がにじみ出てますよね。

そしてアンナの自己否定から自己肯定への切り替えを象徴する「許してアンナ、あなたが好きよ」というマーニーのセリフがあります。

思い出のマーニー

結局、(アンナの妄想は祖母マーニーの語った思い出話が大元になっているとは言え)妄想上の少女マーニーの細かな言動はアンナの創造の産物であることは間違いありません。

アンナが作り上げた少女マーニーには少なからず、アンナ自身がなりたい・憧れるような姿が投影されていたはずです。人間であれば誰しも「こんな風になれたらな」って理想像は持っていますよね。

そういうアンナの理想像が反映されたのが少女マーニーなのです。現にアンナがマーニーに向かって「あなたがうらやましい」というセリフがありましたよね。自分で作り上げた理想像なのだから羨ましくて同然。自分にないものをすべて兼ね備えて見えますから。

そんなアンナの憧れ・なりたい姿の象徴であるマーニーに(本来の自分”嫌いだったアンナ”に向かって)「好きよ」と言われたことにより、本当の意味でアンナはアンナを好きになる(嫌いでしょうがなかった部分も認める、許す事ができるようになる)つまり自己肯定することができたのです。

「祖母の話をもとに作り上げた自分の憧れ・なりたい姿”マーニー”」と「自分が嫌いな自分”アンナ”」という二つの存在が、お互いを認め合い自己の中で混ざりあうことにより自己肯定をしっかりできる少女へと成長というところでしょうか。

そんなアンナが妄想の世界での追体験を通して現実とまっすぐに向き合うようになり(自分と向き合うことができた)、だんだんと周囲の気持ちを素直に受け止めるように、愛情にも気がつく事ができるのです。

嫌い、嫌い、嫌いという自己否定的なフィルターを通してしか世界を見れなかった子が、追体験を通していろいろなものに触れ自己肯定できるまでに成長し、その結果周りのみんなの気持ちも素直に受け取れるようになったんですね。

いや〜よかったよかった。

個人的あとがき

思い出のマーニーをアンナの自己肯定の物語として考察してみたのですがいかがでしょうか?

物語に対する解釈は見た人の数だけあると思います。それが面白いので記録として残しているのですが。

考察をまとめていて(まとまってない気がするけど)思ったのは、やっぱりマーニーは幽霊やタイムスリップなんかの産物だとは思えないな~と思いましたね。

うん、しばらくは思い出のマーニー考察記事を読み漁る日々になりそう!
また面白い見方捉え方を探してみたい!

以上、思い出のマーニー考察 追体験を通した自己肯定の物語でした。

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