どうも、おしゃキミです。こんばんは。
ほぼ日の「わたしの嫌いな人」という2人の関係性がつづられたエッセイがおもしろかったので、ぜひ読んでみてほしい。
http://www.1101.com/juku/hiroba/2nd/free-237/03.htmlこれ、、、。嫌いという感情の良さがすごく出てる。
— おしゃキミ㍿花園精肉 (@Osha_Kimi) 2016年12月7日
お互いに嫌い合っていた2人が温泉旅行に行く話。2人のそれぞれ視点から、その時々の気持ちや変化などが綴られていく。どちらの言い分も、気持ちも、わかりみが凄い。
「嫌い」って感情はマイナスのイメージが強いけれど、このエッセイを読み終わったときにはスッキリとした気持ちになった、むしろ気持ちがよかった。
結果的に2人が和解したから? いい話で終わったからだろうか。それよりもっと違うところでスッキリしたんじゃないだろうか。そんなことを考えた。
ここで自分の中の「嫌い」ってなんなんだろうって考えてみる。そういえば昔っから「嫌い」っていう感情が嫌いだったことを思い出した。ものすごい矛盾だけれど、こうとしか言いようがないのだからしょうがない。
「嫌い」という感情がすごく嫌いだという話
先にあげたほぼ日のエッセイがまさにそうですが、「嫌い × 嫌いの関係性」を描いた漫画や小説はキャラクターの心の動きがたくさん見えてくるから大好き。
なんだけれども、いざ自分の心の中に「嫌い」という感情が生まれてくると話はまた変わってくる。
私は嫌いという感情がすごく嫌い。正確には「だれかや何かを”嫌い”という事実に自分の感情が支配されること」が嫌い。
何かを嫌うってことはその何かに対して、数パーセントくらい自分の心のスペースを割いてるってことじゃないですか。もうね、その状況が耐えられないんですよね。
なんで嫌いなコトやモノに感情を揺さぶられて支配されなきゃいけないんだ!? グワァアァァァァ!!
ってなるんですよ。嫌いなものに感情を支配されてしまう自分が悔しいッ! なんで嫌いなもののことこんなに考えているんだろう。なに? これが恋なの? …みたいな。
私は嫌いなものを見るとちょっとしたことでイライラするし、文句の一つでもぶつけてやりたくなります(チキンだから絶対に口に出さないけれど)。
「嫌い」って感情を超えたところにある何か
ここまで負の感情にまみれてまみれて塗れまくってくると嫌いだったそのものに対する感情は薄れてきて、むしろ『スルーすればいいのに、なんでこんなことに時間を費やしてしまうんだろう』って感じで自分の心が狭さを実感させられるんですよね。
もしかしたら私は、「嫌い」って感情のせいで向き合わされる、自分の心の狭さを実感させられるから嫌いなのかもしれない。
上のグラフ線を見ればわかる通り(わかるでしょう? というか、わかれよ)、グラフの右上ゾーンになってくると、もう嫌いになった原因はどうでもよくてイライラしていることに対してイライラしたり自分でもわけわかんなくなるんですよね。普段ならスルーできることさえも目に付いたり…。
そういう時に必要なのは距離と時間なのかも。冒頭で紹介した「わたしの嫌いな人」の当事者2人にも距離を置いた期間と時間がある。再びしゃべるようになった時、自然と普通に話せたのはお互いの「嫌い」って感情がある程度、落ち着いていたからなのかな~? なんて考えたり。
「嫌い」って感情だけに限った話ではないけれど、一度振り切れてしまったぐちゃぐちゃの感情を処理するにはいったん落ち着かせる時間と距離が必要なのかもしれない。
「常に心に余裕をもって生きたいものだね」 |
コメント